中井正清とは?お城大工棟梁の歴史秘話と子孫と本について

NO IMAGE

中井正清とは、江戸時代の天才的お城大工棟梁である。また、中井正清の歴史秘話にくわえてその子孫についてもご紹介していきたいと思います。まず、中井正清の活躍によって今やお城の国ニッポンと呼ばれるほど、日本は伝統的なお城が数多く存在しています。中井正清はその日本伝統のお城の誕生をリードさせた天才的な大工の棟梁であり、その腕によってどのように出世していったかをまとめてみました。

中井正清とは徳川家康を支えた大工の棟梁

中井正清とはその天才的な大工の才能を生かして、徳川家康の支えとなった人物でもあります。お城の建設の先駆けとなったリーダーとして中井正清は知られておりますが、日本の伝統的なお城の数々を圧倒的な独自の建築手法によって信じられないほどのスピードで仕上げていってきました。

中井正清は江戸時代の天才的な大工棟梁でありますが、棟梁というものは建築全般の手配すべてをこなす重要な役付けとなっています。大工棟梁は、現地の建築に関する全ての資材やそれに関わる人材の確保と手配などを行い、それに発生する予算組から仕上がるまでの工期のスケジュール構築までをこなさなければいけません。

中井正清が手掛けたお城で有名なものとしては1602年~1603年の間に京都の「二条城」をつくりあげ、1606年~1607年の間に江戸城の「慶長度天守」をつくりあげ、1610年~1612年の間に名古屋城の大天守をつくりあげました。江戸時代に完成したこの3つのお城を手掛けた中井正清は、とても短いお城建設の工期が伝説的記録となっている。

このように中井正清は徳川家康からの直接的な依頼によって、日本を代表するような「二条城」「江戸城」「名古屋城」といったお城建設に携わり徳川家康の支えとなったが、その出世の歴史秘話について触れていきたいと思います。もともと中井正清は奈良県にある法隆寺の宮大工でありました。

中井正清(なかいまさきよ)は1565年に大和国(現在の奈良県)で誕生して、その大工の腕前が認められて徳川家康に雇用される形となって先述した「二条城」「江戸城」「名古屋城」の建設に携わるほかに、徳川家康の直々の命によって京都の「知恩院(ちおんいん)」同じく京都の「方広寺(ほうこうじ)」、静岡県の「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」、同じく静岡県の「駿府城(すんぷじょう)」、東京都の「増上寺(ぞうじょうじ)」、栃木県の「日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)」、などの建築を請け負っており、1619年3月7日に57歳という若さで生涯を終えました。

中井正清の出世歴史秘話は関ヶ原の戦い

徳川家康が中井正清を雇い入れ、専属的な大工として出世したのには1600年10月21日に起きた「関ヶ原の戦い」に大きな理由があります。この関ヶ原の戦いによって、武将石田三成が率いる西軍によって伏見城が攻め落とされてしまい伏見城の大部分が焼失する事態となっていまいました。

そして、1602年になって徳川家康が中井正清に伏見城の再建を命じて、見事に中井正清が伏見城を復城させたことによって徳川家康が中井正清を正式に雇い入れる形となり大きな出世を果たした歴史秘話があります。このような出世を果たし、数多くの徳川家康からの命を受けて建築に励んだ中井正清と同様に、その中井正清の子孫も大工頭を務めていた。

中井正清の子孫について

中井正清をはじめとして、その子供を中井正侶(まさとも)、中井正侶が中井正知(まさとも)となっている。分かっている限りで、中井正清の子孫について順に名前をあげていくと以下のようになります。

  • 中井正清(1565年~1619年)
  • 中井正侶(1600年~1631年)
  • 中井正知(1631年~1715年)
  • 中井正豊(1682年~1735年)
  • 中井嘉基(1709年~1750年)
  • 中井正武(1734年~1788年)
  • 中井正紀(1768年~1818年)
  • 中井正平(1785年~1849年)
  • 中井正路(1815年~1865年)
  • 中井正居(1835年~1900年)

中井正清に関する本ついて

中井正清に関する本を調べると、以下のものがあった。